「複雑な生い立ち」という言葉の裏側
こんにちは、カノンです。
世の中には、いわゆる「複雑な生い立ち」の人というのが、結構な割合でいるのだと思います。
昨今は、夫婦の離婚は当たり前にありますしね。
片親で育つとか、親の愛を知らないで育つなんてことも、それほど珍しくはなくなってきているかもしれません。
他にも、「普通の」家庭に育った人では経験しないであろう事情を抱えて生きている人というのも、なんだかんだで結構いるのではないかと思います。
「これが一般的な幸せ」とか、「普通の人生」とか、そんな基準を私たちは無意識のうちに持っています。
たとえば、
両親が揃っている家庭で育つのが普通、
家庭とは愛情に満ちているもの、
お金の苦労をしないで育つのが幸せ、などなど。
これって、社会的な暗黙の価値観なのです。
それが「善」であり、「幸せ」のイメージなのです。
だから例外に遭遇すると、「複雑な事情」とか「不幸な生い立ち」などという言葉で理解しようとするのですね。
自分が同じような環境にいたり、同じような経験をしていなければ、相手の心情を想像することはなかなか難しいもの。
なんとなく居心地が悪くなって、触れてはいけないもののように扱ってしまうのかもしれません。
「不幸」か「幸せ」かは本人が決めること
でも、「不幸」か「幸せ」かというのは、何かの基準ではかれるものでありません。
ましてや、それを当事者でない外野が論じるのはナンセンスです。
なぜなら、そこにどんな意味を持たせるのかは、本人次第だからです。
「私は不幸な生い立ちだ」と本人が思ってしまったらば、その人の基盤にあるものは、不幸なイメージの中に成り立ったものになってしまいますね。
でも、なぜそのような環境に生まれたのか、なぜ普通とは違う環境で育たざるをえなかったのか、意味を理解することができるようになると、意識が一変することもあるのです。
おそらくその意味を見つけるのは、簡単にはいかないでしょう。
ある程度時間がかかるかもしれません。
でも、自分と向き合い続けてその意味を問い続けているうちに、いつか分かる時が必ずやってくるはずです。
「私は不幸だ」で片付けないで
「私は不幸だ」で片付けてしまうことは簡単ですが、それでは本当の幸せを感じることは難しくなってしまいます。
「私は不幸」という思い込みが前提にあるので、幸せと思えるものがやってきたとしても、それを受け取れなかったり、受け取ったとしてもそれを壊してしまうかもしれないからです。
不幸になるために生まれてきた人は、ひとりとしていません。
私たちは、あらゆる感情を味わったり、さまざまな事柄を経験するために生まれてきているのです。
だから、もしあなたが「私は不幸だ」と思っているのなら、不幸と思える事柄にじっくりと向き合ってみてください。
その中で生まれる感情を、味わいつくしてみてください。
もし、目をそむけたくなるような感情がわいてきたとしても、それを感じている自分を許してあげてくださいね。
その感情を味わうことすらも、とても貴重な経験のひとつだからです。
内省して、生い立ちの意味を問い続ける
もし、家庭環境や生い立ちによってあなたが苦しんでいるのなら、その意味を自分の心に問い続けてみてください。
なぜ自分はこのような環境に生まれたのか、と。
この経験から何を得ようとしているのか、と。
これが、「内省」するということです。
自分と向き合い、心に問いかけ続けること。
簡単ではないかもしれません。
でも、その答えを知っているのは、あなただけなのです。
問い続けた先には、きっと納得のできる答えが見つかるはずです。
そして、ただ単に経験するだけでなく、その経験を活かして何かができることにも気づくはずです。
たとえば、同じように苦しんでいる人の気持ちが分かるようになったり、人の痛みに寄り添えるようになったり。
あなたの経験は、誰かにとっての救いになるかもしれません。
そこにたどり着くことができたなら、あなたは自分の魂がいかに強く、愛に満ちているかということに気づかされるでしょう。
複雑な生い立ちは、あなたを不幸にするためにあるのではありません。
あなたがより深く、より強く、より愛に満ちた人間になるために、魂が選んだ経験なのです。
どんな生い立ちであっても、そこには必ず意味があります。
どんな経験をしたとしても、あなたはそれを乗り越え、魂を輝かせることができるのです。
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